かんぴょうの歴史について(栃木県干瓢商業協同組合ホームページより)
栃木県での栽培の始まり
栃木県に入ってきたのは、1712年、江州(現在の滋賀県)水口城主鳥居忠英(ただてる)公が、幕府の命により下野壬生城主に国替えになり、旧領地の木津からユウガオの種を取り寄せて、領内の村で試作されたのが始まりとされている。
それまでは、壬生の農産物は”牛蒡”、”竹の子”を中心としたものだったが、忠英公は農業振興の重要性を痛感して、郡奉行の松本茂右衛門に命じ、ユウガオの種を黒川の東西に蒔かせた。 そしてユウガオの栽培に成功したのが、藤井村の篠原丈助であったと言われる。 その後、栽培地域が上三川町、小山市、下野市(石橋町、国分寺町、南河内町)、宇都宮市、真岡市、二宮町、鹿沼市など栃木県の南東部に広がり、一大産地を形成するのに至った。
忠英公の前任地である水口は、東海道沿いにある宿場で、当時の様子は歌川広重が描いた『東海道五拾三次之内 水口 名物干瓢』で垣間みることができる。
忠英公と交代で水口城主に就いた加藤嘉矩(よしのり)公が、干瓢の優れた生産技術を壬生から伝え、水口干瓢繁栄の礎が築かれたという説もある。 栃木県でユウガオの栽培が広まった理由の一つは土壌が適していたことである。ユウガオの根は浅根性で横に広がり、深根でも40cm程度で、旺盛な成育に多量の水分を必要とするため、保水力のある土が必要である。根の発達のためには排水の良い軽い土が適しており、この条件に合った黒色の火山灰土が広く分布(関東ローム層)していた。
また気象条件に恵まれていたことも要因の一つと考えられる。干瓢の生産期7〜8月には、本県の夏の風物詩である雷雨により地表が冷やされ、暑さに弱いとされるユウガオの根の伸びを促す。また、その水分は、開花後わずか2〜3週間で収穫するふくべ(ユウガオの実)を太らせる恵みの雨となっている。
このように土壌や気象条件に恵まれたことに加え、農家の人々による不断の努力により、栃木県の干瓢生産は1970年代後半まで維持拡大を遂げ、栽培面積、生産量とも日本一(国内シェア95%以上)を誇る特産物に発展した。
栃木県干瓢商業協同組合ホームページより